2014.08.18 カテゴリー:
滝川2yearsトリプルジャンパー JUMP ―教員×卒業生対談― 完全版

安田義明先生(教授)×
山内千奈苗さん(国文科5期生)×船越ほのかさん(国文学科2年)×土本優希さん(国文学科1年)

受け継がれていく國短DNA

安田先生

安田私たち、実は同期なんだよね。山内さんは私が初めて教えた
学生のひとりでね。最初に担当した学生というのは、今でもよく覚えているものなんだ。
私も当初は5~6年のつもりで短大にきたのだけれど、あっという間にあと4年で定年だよ。

山内着任されて、短大にはどのような印象を持たれましたか?
当時は女子短大でしたよね。

安田素朴な学校という印象かな。「女子」短大という雰囲気はなかったから馴染みやすかったよ。今は男子学生もいるけど、あまり変わらないね。
当時から変わらないといえば、今でも授業の座席は前から埋まっていくよ。

船越そうですね、いつも競争です。授業が終わると真っ先に次の授業の座席をとりに行きます。

土本鞄を置いて席を確保してはじめて、ゆっくり休憩できます。

山内授業に対する熱意は変わっていないんですね。
私は短大に入学する直前まで、大学進学は考えていなかったんです。ところが、目指していた進路が叶わなくなってしまって、残ったのは短大進学の道だけ。両親はとても心配していましたが、私は大好きな国語を勉強できることに心躍らせていました。本当は一番やりたかったんです。だから少しでも多くのことを吸収したくて、勉強は人一倍頑張っていたと思います。

安田いつも一番前で授業を受けていたのを覚えているよ。
入学したときから太宰について勉強したいと言っていたよね。

山内はい。高校時代から太宰治が好きでした。優等生である自分とそれでは満たされない自分に板挟みになっていたんですね。そんなとき、太宰の作品がとてもしっくりきて、どんどん惹きこまれていきました。

安田今はあまりいないけれど、当時は入学前から研究テーマを決めて入ってくる学生が多かったね。そして、太宰はとても人気があった。ゼミ生の半分が卒論のテーマを太宰にした年もあったくらいだよ。

「学べば学ぶほどに、さらに学びたいことが出てくる。これが勉強なんだなぁと感じました」(山内)

山内さん

山内高校時代は、恥ずかしくて太宰が好きと周りの人には言えませんでした。
気軽に文学の話をするような環境もなかったですね。ところが、短大に入学してみると太宰ファンがとても多くて。恥ずかしさなんてどこへやら、授業や ゼミで太宰の世界をより深く味わうことができました。私の求めていたものはここにあると感じました。

安田でも結局、卒論は太宰にしなかったんだよね。

山内はい、太宰の弟子の田中英光という作家について書きました。
                 
安田全集までそろえていたよね。

山内田中英光の全集はなかなか見つからなかったんですが、本屋さんをやっている親戚に頼んで探してもらいました。
田中英光はもともとオリンピックのボートの選手だったんですよ。選手時代のことなんかを題材とした私小説作家で、決して文章がうまいわけではないのですが、全身で書いている感じに魅かれました。

安田その「全身で」一生懸命になっている感じ、なんだか山内さんに似ているような気がするな。
何にでも熱心に取り組んでいた姿が思い浮かぶよ。運動部にも入っていたよね?

山内はい、入学当初はバレー部に所属していました。顧問の先生にスカウトされまして。
ですが、バレーの練習が辛くて国語の勉強どころではなくなってしまったんですね。私は国語の勉強をするために短大に入ったのに、なんでバレーに振り回されているんだろうと。きっぱりバレー部は退部して、文芸部を創設しました。安田先生に顧問になっていただきましたね。

山内さんの学生時代

安田そうそう、当時は文芸部がなかったんだよね。
今でもあるけど、創設時が一番熱心に活動していたように思うよ。機関紙を年に4回発行するんだよね。

山内私も小説を発表しました。
船越さんは、創作活動をしているんでしょう?

船越はい、児童文学の創作ゼミに入っています。

山内高校時代から国語が得意だったもんね。絵も上手だったね。

船越児童文学は両方生かせて楽しいです。
文学賞とかコンクールに応募するよう先生方がすすめてくださるので、課題に追われています。

安田創作ゼミの人たちはコンクールに積極的に応募しようという方針だからね。

船越今はスポーツがテーマの作品を書いています。児童文学なので、小学生や中学生向けの作品です。昔バドミントンをしていたので、そのことについて書いています。

山内船越さんは国語が好きだったから、短大に入学するって聞いたときは納得したけど、土本さんは正直なところ意外だったな。

土本そうだったんですか(笑)
私自身も漠然と専門学校に行こうかと考えていました。
でも、吹奏楽部で同じパーカッションを担当していた船越さんが短大に入られて、とても楽しいとおっしゃっていて。完全に先輩の影響で入学しました。
今も隣の部屋に住んでいるので、とても心強いです。

山内隣同士!それは安心だね。
吹奏楽が盛んな学校だから、その絆はとても強いのでしょうね。
でも、私も学生時代そうだったんだけど、古文とか漢文とか、大変だったんじゃない?商業高校ではあまり勉強しないものね。

土本そうですね。その点は本当に授業についていくのが大変です。
でも、先輩に助けてもらいながら頑張っています。
私も先輩同様、児童文学の創作ゼミをとっているのですが、今はそれがとても楽しいです。

安田こうして教え子の教え子が入学するというのは感慨深いね。長く勤めている者の特権だ。
ところで、山内さんはどんな教師なのかな?

船越良い意味で放っておいてくれるというか、生徒の自主性に任せてくださいます。
ガミガミ言われたりしないので、何でも気軽に相談できる先生でした。

土本先生の授業では、毎時間「恐怖の漢字テスト」というのがあって。
5点満点なんですが、学期ごとに平均2.0点を切ると、休み中に補講を受けなくてはならないんです。それだけは避けたくて、いつも一生懸命勉強していました。

安田なるほど、山内さんの授業、興味深いね。
山内さんはどうして教師の道を選んだのかな?

「国語がすき」だから選んだ道の先にあったもの

山内私は、短大入学時は編入を考えていませんでした。2年間だけという約束で、両親に許してもらいましたから。ところが、いざ入学してみると国語の勉強をすることが楽しくて楽しくて。知らないことを学ぶ楽しさに夢中になってしまいました。そこで、もっと勉強を続けるために編入しようと決心して、「先生になりたいから」と言って両親を説得したんです。そのときは真剣に先生になることを考えていたわけではありませんでした。

安田当時は編入の枠が狭かったから、基準をクリアするのは大変だったでしょう。

山内そうですね。厳しかったです。船越さんたちのように創作活動をしたり、短大で教職課程もとりたかったのですが、両立は無理だから編入の勉強一本に絞りなさいと言われました。それから本当は図書館司書の勉強がしたかったです。昔から本が好きで、本に囲まれる生活に憧れていたので、図書館司書は夢のような環境だなと。でも残念ながら当時の短大には司書課程はありませんでした。

安田田中英光だけでなく太宰治の全集まで揃えたと聞いたときは驚いたけど、本当に本が好きなんだね。

山内短大を卒業する時にもっと勉強したいと編入の道に進みましたが、4大卒業時もそれは変わらなくて、もっと国語を勉強したい、国語に携わりたいと思ったんです。それで選んだ道が国語教師でした。

安田今も昔も、短大2年間だけのつもりで入学してくる学生の集中力・緊張感には凄まじいものを感じるよ。勉強に対してとても貪欲なんだ。
今のご時世、2年間だけなら専門学校、経済的に余裕があれば4年制大学を選ぶ人が多くなっているようで、短大という選択肢を選ぶ人が少なくなっているかもしれないね。でも、我々はそういう学生をとても大切に思っているよ。
2年間ここで集中して勉強すれば、その先の選択肢も広がるんじゃないかな。

安田先生と生徒たち

山内私もそう思います。教え子たちには、自分のやりたいことをやってほしいと願っているんです。私自身がそうであったように、周りの期待や経済状況で他の道を考えることもあると思いますが、やりたいことがあってやれる環境があるのであれば、是非チャレンジしてほしいです。
私の場合は、短大で学べることは全部学んでやろうと思って2年間を過ごして、それが本当に楽しかったんです。だから、もっともっと勉強したいとつき進んでいった結果、教師という職業に辿り着きました。一見遠回りに見える道であっても、やりたいこと・楽しんでできることに挑戦してほしいですね。私は今でもこうして本に囲まれて国語漬けの毎日を送れることに、幸せを感じています。

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太田信二先生(総合教養学科教授)×
島添美智子さん(コミュニケーション学科23期生)

「問い」に向き合い、考え抜く姿勢

太田先生

島添今日は太田先生に伺ってみたいことがあるんです!

10年ぶりの「問い」

島添高校時代から哲学や心理学に興味があったのです。
通っていた塾の先生に國學院の哲学科を勧められて。
受験で挫折していたこともあり「親元を離れ心機一転頑張ろうかなとも思い、編入も目指して滝川にきました。

太田入学したての島添さんのことは鮮明に覚えているんです。
「私は哲学科に編入できますか?」って聞かれて。

―とても意志の強い新入生だったんですね。

島添「哲学」と名のつくものはすべて受講しました。
コミュニケーション学科は哲学の他にも幅広く学べますから、経済学、法学なども学んでみて…それでもやっぱり哲学だと2年では太田先生のゼミに入りました。

太田よく言うんですが、うちの学科では「お試し」ができるんですよね。自分に向いている・または自分がどの分野を学びたいのか、はっきり分かっている高校生は少ない。編入を希望して入学してくるのであれば、短大時代は基礎力を身につけつつ、様々な分野を学んだ上で自分の興味関心を十分検討してもらえますよね。編入時の学部を納得して決められます。

島添高校ではその専門分野の先生とお話しする機会もないですしね。特にうちの短大は先生たちとお話しできる機会が多いのも自分のやりたい分野を見極めるヒントになるからいいですよね。

―その点では島添さんは様々な分野を「試した上で、高校時代からの興味関心がぶれなかったのですね。

学生時代に見出した答えを、再考し続ける今

島添さんの学生時代

島添二年間短大で太田先生から学んで、大学でも引き続き哲学がやりたいと國學院大學の哲学科に編入しました。西洋哲学だけでなく、インド・東洋とより広く学びました。その中で日本人の哲学者に興味がわき、卒業論文には西田幾多郎を題材にしました。太田先生に驚かれたんですよね。

太田西洋哲学をテーマにする学生が多い中で、日本の哲学者を取り上げる学生ってあんまりいないものですから。同時期に中世や美学をテーマにした卒業生もいたようで、うちのゼミからは多彩な人材が育っているんですよ(笑)

島添私の場合は國大に編入して、日本の文化に触れることが多かったからかもしれないですね。卒業後、先生と卒論の内容についてお話しさせていただく機会があったんですよね。こういう研究をしました、で、「さっぱりわかりません」って(笑)

―(笑)今はどうですか?

島添さん

島添今もわかりません(笑)だから今日、先生に伺ってみたかったんです。
大学の卒論で「善」を研究テーマにしたのは「少しでも善く生きたいな」って思ったからなんです。
中学時代は「自分は正しい」と思っていたのですが、高校生になって様々な価値観に触れるにつれて「あれ、違うかも」と思い始めました。そこからは悩みつつ、いろいろ試すことでブレも起こしながら生きてきて…そのブレを正すために大学では西田幾多郎の『善の研究』を題材に、「善とはなにか」「善く生きるには」を読み解こうとしたんです。
その研究から私が読み取ったことは「極端にならず、バランス良く生きる」ことで、それこそが西田が『善の研究』で言いたかったことの一つであろうと考えているんですね。それを胸にここまで来たんですけど…「バランス良く生きる」だけでは、挫折で一度ブレた生き方を正すにはもうひとつ、心もとないというか…まだ芯が通ってない感じがしてたんですよね。
 
それどころか卒業して7年、最近よく考えるんですが、そもそも「善く生きる」ことなんて、無理なんじゃないかって。「善く生きたい」と思うこと自体が、傲慢なんじゃないかって。
今ではそもそもバランス良く生きる=善く生きるなんて、それ自体無理なんじゃないかって思えてきたんです。「善く生きる」ことなんて、できるんでしょうか?

太田…いいんじゃないですか、「善さなんかわかるかい!」でも(笑)わからない人のほうが多いでしょ。

島添(笑)みなさん、わからないものなんですか?

―わかりません、考えたこともないです!(笑)

太田(笑)さておき、伺ってる限りですけど、そもそも一般的な〈善さ〉と、ご自分にとっての〈善さ〉がまだお分かりになってないですよね。「善く生きる」ためにはまずここがわからなければ、どう生きていいかもわからないですよね。
〈善〉っていうのはそもそも普遍的じゃないとおかしいはずなんですよ。
「真・善・美」のそれぞれは本来普遍的でひとつしかないものなんです。真は真理と考えると、真理はたくさんあるとおかしいですよね。美も本来はひとつしかありません。それを私たちは、モナリザの絵であったり草花の美しさという形で感じ取っているのです。
善も同様に普遍的であり、それがいろいろな場面で様々な〈善さ〉となって表れ出てくるはずなんです。自分なりの〈善さ〉、「〈善く〉生きる」方法がこれにあたるのではないでしょうか。
ただ、「〈善さ〉一般ってなあに?」って聞くと…きっと多くの人がわからないですよね(笑)
大学時代の研究から得た『善の研究』にとっての「善さ」はそれとして、次は、社会経験を積んでいく中でご自身にとっての〈善さ〉を明確にしていったらどうでしょうか。

島添私自身が持つ「善く生きるには」という問いも、短大で太田先生に与えて頂いたいろいろな問いも、きっと学生時代の経験値じゃ満足のいく答えにはたどり着けないんですよね。経験を積むと考え方もたどり着く答えも変わる。それまでなかった新たな視点も加わりますし。自分にとっての「善さ」についても、これから少しずつ見つけていくものなのでしょうか…

―お話を伺っていると、今も変わらず問い続けているというの素晴らしいと思います。そちらのほうが「答え」そのものを得るより貴重、といいますか…技術や資格が社会人になってから活きているというのはよく聞きますが、純粋に学生時代の「学び」を、卒業後10年近くたった今もなおご自身の社会経験を付加した上で現在進行形で探求し続けておられますよね。

太田先生と島添さん

島添確かに、問いに向き合い、考える姿勢が身についたことは一生モノだな、って思います。昔から興味はあったけど、どういうアプローチしたらいいのか、どう研究したらいいのかが高校生じゃ全くわからなかったのですが、國短に来て様々な分野の授業を受けられたこと、自分とは違う友人たちの多様な考え方、そして今日みたいに先生たちとお話する時間を多く得られたおかげで、自分の中の問いへのアプローチ方法を学べました。
短大二年間で見えてきた自分の興味関心を持って大学に編入できたからこそ、卒論ではひとりでもテーマと向き合うことができましたし、その経験があったから社会人になった今でも様々な問題に対峙した時に多角的なアプローチができる。学生時代にこういう経験をしていたことによって今助けられることは本当に多く、私の財産になってますね。

―今日のお話の「つづき」をまた、数年後お二人からお伺い出来たら嬉しいです。

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黒阪陽一先生(幼児・児童教育学科教授)×
山平千奈都さん×寿永美和さん(幼児教育科9期生)

恩師との20数年。そしてこれからも

黒阪先生

―お二人が國學院に入学した理由を教えてください。

山平将来、保育士になりたくて、地元にあった大学を親に進められた。

寿永私も、せっかく地元に大學があるのだからと進められて…。
地元の学校に行ったら、車を買ってやると言われたので(笑)。
それに、当時は保育士と幼教の免許が取れる学校って道内には少なかったのですよ。高校の友達とかも札幌の短大に行きましたがが、幼稚園の免許しか取れなかったので。2年間の短い時間で2つの免許が取得できるのは、とても魅力的でしたね。

―入学してみてどうでしたか?

寿永地元出身だったので、いろんなところの人と出会えましたね。
道外から来ている人も多くて、どうしてこんな地方の学校に…と思いました。道外出身の友達が雪を見てキャーキャー喜んでいたのがとても不思議だった(笑)。

山平実習でスキー場に行ったとき、道外出身の友達がはじめてスキーをするのを知らなくて、富良野スキー場の山頂まで連れていってしまったことがありますね。結局、自力で滑ってくることができなくてリフトで降ろしたけど(笑)。

黒阪そうだね。関西弁も飛び交ってたし、すごい学校だなと思った。
 
―どんな学生生活でしたか?

山平学校というよりは…バイト中心だったかな(笑)。
寿永私も、自慢はできませんが同じような感じですね(笑)。

時のうつろいの中で、変わらないもの

山平さんと寿永さん

―学生の様子は変わりましたか?

山平先生から見て、学生の質って昔から見て変わりましたか?

黒阪ゆとり世代のころから、学生の質が変わったような気がする。子供っぽい学生が増えたように感じて、どうやって指導したらいいか迷うこともあるね。学生個々は、今も昔もいいものをいっぱい持っている…それは、変わらないかな。
ただ、今は、幼稚園教諭や保育士も大変な時代。昔と違って、保護者が求めるものも大きくなっていて、就職しても、いきなり現場に投入されてしまうから、負担が大きくて、すぐにやめてしまうケースも多い。もっと、育ててもらえる期間があればいいのだけれどね。
 

寿永昔は学生数も多かったしね。一学年、120人くらいいましたよね。

黒阪今は、一クラス20人だからね。

山平・寿永そんなに少ないんですか?

山平私たちが2年生になる時に、女子短大から共学になったので、男子学生が入学してきたんですよね。

黒阪そうそう。トイレが心配でね(笑)。最初の頃は、教員用を共用していたんだよね。それが、今は、短大全体では男子学生の方が多いからね。

山平先生は、短大に着任されて何年ですか?

黒阪短大ができた時からだから、31年かな?
短大に来る前は、ロン髪だった(笑)。29歳までスペインのマドリードで、毎日絵を描いて暮らしていたね。
帰国して、自分の身分を証明するものがなくて、海外から送った自分の荷物を受け取れなくて(笑)。仕方がないから、自動車学校へ行って原付バイクの免許を取って、半年遅れでやっと荷物を受け取れた(笑)。
北海道に新しい短大ができるからということで紹介してくれた人がいて、講師として着任しました。

山平在学中は、先生が絵を描いていたのを知らなかった(笑)。

―國短で得たものは活かされていますか?

寿永卒業生の名前って覚えてますか?

黒阪いや(笑)、ほとんど覚えていない…。

山平私のことも、きっと先生は覚えていないと思う(笑)。

黒阪卒業してから、しぶき祭りの交通誘導をやっているのを見かけて、そういう会社に勤めているのかと思った(笑)。
そういえば、山平さんが、市内の美術自然史館にいた時には、一緒にイベントをやったね。

山平子供向けのイベントでしたよね。やりましたね。

黒阪その時は、もう保育士ではなかったけど、さすがに子供の扱いが上手だなって思ったよ。

寿永私は、保育士として就職した最初の年に担任を持たされて、どうしたらいいかわからなくて、土曜日に短大に相談に行ったことがあります。黒阪先生もいらっしゃって、お話を聞いていただきました。

黒阪そんなこともあったかな(笑)。

寿永卒業した学校が近くにあって、何よりも相談できる先生が身近にいらっしゃるというのは、就職したばかりの私にとって、とても心強く感じたことを覚えています。

山平小さい大学ということもありますけど、学生と教員の距離の近さというのも、國學院短大の魅力の一つですよね。

黒阪先生と生徒たち

黒阪そうだね。そこは、今も昔もあまり変わらないかな。

―最後にお二人から先生へメッセージを

山平卒業してから仕事を通じて先生と再会し、学生時代以上にご迷惑をおかけしていますが、これからもよろしくお願いします。

寿永今回の取材のために久しぶりに研究室や図工室にお邪魔して、とても懐かしく、また、学生時代とは違う感覚で黒阪先生とお話ができてとても楽しかったです。